8/09/2010

[&] takram * Sou Fujimoto

AXIS JIKU
----------------------------
田川欣哉&藤本壮介のクリエイティブ・トークセッション in アクシスギャラリー

T:田川欣哉
F:藤本壮介

■物の生態系

F:今日は10個キーワードだしながらバトルするという1時間ぐらいの企画
先ほどお話があったように、もし田川さんがご都合があれば是非という話に。
去年のミラノサローネで展示、ある意味建築と違う部分と、同じ部分とがあって、
感心した。刺激をすごく受けた。
その時もちょっと話したんだけど、あまりその後話していなくて、
もうちょっと突っ込んで話してみたかった。

ここに打ち込んでいきたいと思います。
あたまに思い浮かんだのが「物の生態系」
白熱電球が亡くなって LEDがとってかわるというのが起こりうる時に、
どう東芝としてプレゼンテーションするかということだった。
LEDの光源を使っているんだけど、白熱電球の形をしているもの。
触ると小動物の鼓動のようなものを感じることができる。
というインスタレーション
たんなる技術でも無いし、単なるアートでもない、
うまくミックスされたもの。
かなり感動したんだけど、
あるものをデザインする時、歴史を持っている白熱電球とLEDの
間にある関係に形を与えるだけではなく、サローネの短い期間でどうセッティングするか?
子供が引っ張った時に落ちてこないようにいかに防ぐか。
高さの調整をどう簡単にするか。
そこでおこっている小さなことをプロダクトの意味として1つの世界を作っている。
ガラスを止めているピンにマグネットが入っている。
手に対する感触だけでなく、あらゆることをゼロからくみ上げていて、
1つの生態系を作り上げているのかと思った。

それ以外のプロジェクトは良く知らないんだけど。
そのへんの物を作るときの「感触」というか「考え方」を聞けたらな〜

T: 今、紹介して頂いた、展示です。

photo_08.jpg

150平米の入り組んだ空間。鏡を敷き詰められた空間の中に 100個くらいのオブジェが
いろんな高さでぶらさがっている。
東芝デザインセンターと、建築家の松井亮さんと、takram で手がけたプロジェクト。
オブジェクトに水が入っていて、
ふらっと会場に入ってきて、立ち話をしていた時に、
どちらかという超マニアックな話に食いついてくれた。

サローネとは、設営期間が短くて、コンセプトとしていろいろな空間を考えても、
72時間で設営しなければいけない。そのなかで全部を仕上げるのは難しい。
できるだけ完成度を高いものにしたかったので、東京で作り上げ、
現地での作業をゼロに近いものにした。
ドリルでねじ閉めの作業も無くし、ボディの接続もマグネットで止まるようにした。
天井のダクトレールにワンタッチでとまる仕組みなど、あらゆる面で考えた。

テーマとして出てきているモノの生態系」
デザインエンジニアリング、デザインエンジニアというコンセプトで会社をやっている。
最終的に人間が体感している時に、人間とモノとの対話、結びつきが
ごくごく透明、よどみなく何かが交換されている状況を作りたい。

水とかクリアで濁りの無い水。ここにふわふわ置かれていると、
急に物質として気になってしまう。
体験の邪魔になるものが無くなった特に初めて没入して「体験」するところに連れていける。
それを丁寧に作るためには、あらゆる設置のための方法、事項や、乱雑な環境などを
除いていく。
ものづくりはピラミッドだと考えてみると、土台の部分がケアされていないと、
先端のところで、気持ちのいいところに到達しないで物事が終わってしまう。

僕らが作ろうと思っているものには、そういうスタンスで細かい工夫が含まれている。

F:うらやましい。建築物は乱暴。
僕らも夢や理想。全てのネジひとつ、ブロック1つ。
全てのものが関係しあっていて、
単にものだけではなく、感受性も含んだ生態系だなと思った。
そういって立ち上がってくるものにあこがれる。
技量が無いのと、物が大きくて着いてこれない。
建築はいきあたりばったりなところがある。
プロダクト一個も建築1つと同じくらいの労力をかけて作られているとおもう。
それゆえの完成度。
最初に見えてくるのか? そういう問題がおこるの? いきあたりばったり?

T: 超がつくくらいのいきあたりばったい。
良く取材を受けていても、プロトタイピングでプロジェクトをドライブしていく。
プロジェクトをスタートした時に思っている時と、完成したものは一致したことがない。
問題に対して、解決しようとした副産物が物の特徴となっていく。
そういうタイプの物作り。

F:最初に考えているのはピュアな気がして、
実は最初に見えているものはそんなに多くないから、
行き当たりばったりで変わって。変わって、最後にできたものの方が
最初にイメージとは違うけどピュアな気がする。
そういう意味では安心しました。

■地と図

T: 最初にお聞きしてみたいなと思ったのは「地と図」というキーワードです。
建築を生業としていないので素人質問でしたらすいません。
いつも思うのは、建築の建物、柱、壁、床、天井の周りに気があったり、
模型だと人がいっぱいいたり、普通だとそうなるけど。

配られているパンフレットの模型の写真

middle_1107886812.jpg

これとかを観ていて「地と図」という関係が融解している。
どっちが地で、どっちが図なのか?
そこらへんをどういうふうな分解で考えているのか?

F:地と図は建築の基本的なところで、考えざるを得ないところ。
僕自身は、何かが、テーブルがテーブルであることで終わってしまうのはイヤなところがある。
他の何かでもあるかもしれない。
それはいろんな意味合いを状況に応じて帯びてくるというもの
建物は中と外というのが必ずある。いつも中、いつも外なのもイヤ。
建築はいろんなものが集まってできている。
家の中が家の中で終わってほしくない。
図と地が反転するとうことがある。A,B,C に変遷していくような、
そういう思考をしているような気がする。

10年くらい前につくったプロジェクト。階段のお化けみたいなもの。
座る高さくらいの段。座れるし、机にもなるし、
なんとも言えない手がかりがあふれていて、
座ろうと思った瞬間に「椅子」という図が現れてくる。
そうじゃないときは「椅子」は地の中にとけ込んでしまう。
意味合いが色々とらえ直したい。

T: そういう考え方に至ったのはなんなんでしょう?
F: 建築の人ってひねくれていて、普通に家に作るのはイヤ。
本当は家ってこういうことじゃない?と家を再定義したいところがある。
僕個人としては、建築する前にアインシュタインに憧れていた。
相対性理論を読むと奇想天外な世界観が展開しているが、
これを正しい世界として提案している人がいる。
世界の見方が違うアイデア。
そういう仕事をやりたいと思った。
物理学は相当難しくて、全く理解できない世界が大学で現れて、あきらめた。

建築やっている時も同じようなところがある。
「家」は何でもいいけれど、自分が考える時に図と地を、すっと反転させるような
違った見方ができないか、常に考えている。

■人とモノ・環境のの動的平衡

T: 建築を考えている時に、人間がそこに座ると意味が机になる。
同時にそこが隣の人にとっては椅子になる。
人の座り方で偶然に場所の位置づけが変わってくる。
デザインが無いわけではない、一応レイアウトがあって、
緩いルールが環境にあるときに、
人間がいろんな考え方をする、
動的に平衡状態にバランスして、
3人でたたずんでいる時に一人はいったいる、抜けたりするとまたちがった状態になる。
人と物とがつくる動的な平衡状態が、
建築はそういう状態をあるバイアスをかけて引っ張ることしかしていない?
僕たちが自分たちで物を作っていても、物側が
これはこれをするものです。
何か体験型の作品があった時に「ここで何々をしてください」というものを
作らないようにしている。
バランスをとっている状態を「展示」と呼びたい。

F:生態系という言葉で東芝のインスタレーションと考えたのは同じ
ものと人の生態系に正しい姿はない。
なにかした時に帰ってきて、その面白さ。

僕の場合は、動的平衡という考え方を、大学卒業した時に、
プリゴジーン散逸構造
たいがいは分からなかったんだけど、
それまでは建築は「機能」ということ。
寝るところは寝室。と決められていた。
かなり大雑把な決まりがあった。それによって20世紀の建築が変わった部分があった。
とはいえ、人間っていい加減なものじゃないの?

何か他に建築を作る、その都度にじみでてくる。
人間というもの、地形などが、関係次第で場所の性質が変わってくる。
局所的な関係で性質が変わってくる。
無秩序ではない、ゆるい仕組みがわかってくる。
床と椅子、大枠では決まっている。
床を無くしてしまえ、と段差にしてしまう。
何かに使えるのではないか。
くぼみがあれば、心地のよい場所になるのではないか。

同じような場所がいろいろ変化してくる。
それを考え直した時の最初のモデルに近い。
自分の原点でもある。

100年後でもこんなところには住めない?
ある意味原始的な部分もある。
動物的に人間が振る舞うところを拾い上げている。
人間の知的な部分と身体的な部分を、もうちょっと感覚的な部分を押し上げてあげる作業。

Screen shot 2010-08-09 at 21.22.52.png

病院の仕事をやって、
50人くらいの子供が住んでいる施設で、
なかのいい子供と、仲の良くない子供がいる。
自分の場所が見つけられない。
見つけられるように、いろんなくぼみを作ってあげた。
大広間から離れているが、視線は通る。
一片 6m のスケール。
素直に形を与えた中で、ある意味の動的平衡、ズレがきっかけになって何かが生まれる。

T: 僕らの場合はプロダクト系が多いので、人とモノの動的平衡。1対1が多い。
複数で人が動いてくると、環境と人と人とで何が起こるかわからない。
できるだけ逆に煽ってあげるような環境。
逆に鎮静するような環境。平衡状態を作るようなルールのルールを。
何かを作る時にどうやってデザインする、どうやって考えていくんだろう?

F: 建築家に必要な素質として、あるいい加減さ、割り切り。
コントロールできないことを図面化しなければいけない。
かなり矛盾をはらんだ中で進まなければいけない。
ぼほ全環境を作ってしまう。
わりとある種のいい加減さが求められている。
最後のいい加減さと熟考のバランス。自分の身体感覚。
こういうのがおおよその人間が
謙虚だけど断固とした判断が必要。

図書館を設計した時に Sato Taku さんにサイン計画をお願いした。
ある大きなサインと、小さなサイン、全体でプロダクト全てが持っている関係性、生態系に
こだわっている。
僕らは自分たちの建築の案があるが、それが持っている簡潔性が嫌な感じがした。
最初はストーリーがのっかってと考えたが、
あるレベルで調和しているだけど、ズレがあっていいし、裏切るところがあっていいと思った。

最終的には、イイ意味でのズレとバランスが融合したものになった。

T: 武蔵野美術大学におじゃましたんだけれど、サインが凄かった。

F: ガラスの裏側に本棚が入っている。
T: 本でできた巨大な迷路のような感じ。
F: 快適に迷えるというのがテーマだった。迷いたい時に迷えるが、ふと気づいた時に戻れる。
物が見つけられる機能と、迷うという正反対の機能を融合させるのがテーマ。
数字というのは図書館の中で 000-999 のナンバーがついている。
数字だけ見ると何のことだか分からない。
気づいた人しか気づかない小さいサインを作ろうと思っていたが、大学側に却下されてしまった。
分類が決まっているのを 方面を示す。

T: 7の群れがアートの文字の塊で7 になっている。

F: この時も、建築はいろいろ物があり、
どこまで人を固く縛り、どこまでいい加減なのか?

F: 僕の中でキーワードとして用意してきたものに

■森

素朴に聞いてみたいものを用意してきた。
「森」は好きですか?

T: 森というと、蛇がいっぱいいる危険なところというイメージ。
F: 木々の中で遊んでいた。森というのはどんなもの?無理矢理引き出すとすれば?

T: 漢字を観た時に、Tokyo Apartment を思い出した。

img_681597_25354054_0.jpeg

対談が決まった後に、すごい思ったのは、一番上のブロックに行こうと思った時に、
行くのが大変。自然は人間に都合良くできていない。森はその象徴。
何か人間に都合良くできていない環境に人間が入ると、
手の長さとか、現代社会は、物を作る時に握りやすいとか、操作しやすいとか、
人間の体に合わせて「●○しやすい」ふうに作るのが暗黙の了解になっている。
人間が抽象的なものになっていく気持ちがする。
iPhone を触っている時、人間の感覚が無くなる。
Tokyo Apartment が人間の感覚を原始的に感じられる。
暴力的なところも含めて、人間らしい部分を考えさせられる。

階段状の作品も含めて、人間に合わせすぎるのは?

F: これに関しては、そこまで登りづらいと思っていなかった。
 はしごで登るのが大事。家と家の間に顔がでてしまう。
あえて階段を1本でなくて、途中まで登って向きを変えて登っていかないといけない。
便利/不便の境目はきわどい。
寝るための場所と言われても寝ないし。

T: 今までのプロダクトは、何ができるか? という形で物を作ってきたが、
機能がいっぱいあるリモコンみたいなものができてきた。
これを使って何ができるかに、変えていった方がいいかと思った。
寝室は寝るところ。寝ることができる空間が寝室?
寝ることができるのは寝室だけではない。
時代のテーマとしてあるのか?

F: 寝るってそもそもどういうところがいいんだろう?
もっともっと広がりそう。
建築はなんとなく
人間の生活がいい加減なので。
プロダクトは、はっきりしている。そうじゃないというジャンル。
より衝撃的となりうる。

T: ハイテク製品の方が目的がはっきりしすぎている。
フォークやスプーン、ハシは、何か他のことにも使える。
プロダクトの懐。
ハイテクなものだけれども、使い方を限定しないものを作りたい。
けれどもクライアントワークだと許されない。

F: つぼ押ししている人がいて、変な形をした物体。変な突起物がある。
たぶんつぼ押しに使う道具? いろいろやるとタマに気持ちいい。
ハイテクでそういうものがあると面白い。
テクノロジーと人間の完成が結びついて。
建築はローテク。建築で実現するのは意義があるし、住環境を作るが、先端ではない。
「森」便利さとか不便さとか、人工物とか、自然物とかを考えるきっかけになった。
最初から「本の森」と呼んでいた。
tak さんがサインをつけるという目的があって、森の中は情報が整理されていないのが面白い。
森に入るとどっちに行ったら良いか分からないというおおざっぱな情報から始まって、
近づいたら分かる情報。モグラには分かる情報、いろんな情報があふれている。
ゴミにしか見えないものも全部情報。
お互いに議論していた。
遠くからは数字に見えるけど、近くにいったら「アート」に書いてある。
人には見えないけれど、ネズミには見えるようなサイン。
使いにくいという話に繋がる。
情報世界が持っているなにか に対する思いは?

T: 仕事から情報にまつわる仕事が多い。
親父が新聞記者で、マスコミで、それの反動もあって、10年くらいテレビを持たない生活をしていた。
情報を遮断しようとしていた。
本をあまりたくさん持たないようにしている。
小さい本箱を持っていて、そこからあふれた本は捨ててしまう。
情報の接し方が変わっている。人とちょっと違う。
仕事で大量の情報を素直に届ける方法を考える仕事はたくさんある。
情報があふれた状態にはしない。
できるだけ触れている情報が少なくて良いのであれば、すくなくて よい。
情報を生み出すタイプ。道具に違い。そういうものを作る方が自分のやる気が出やすい。
図書館の中に入った時に「整理/未整理」のところが心地よかった。

パソコンの上で情報を消費するのではない、心地良い方法、
心地よい接し方、情報側が出力最大で迫ってくるので、
人間が制御するような仕組みが、原始的な接し方なのではないかと思う。
うまい具合の状態を、情報でどうやったら作れるのかと思う。重いテーマ。

F: コンピュータがとろくなる時がある。それだけですごく困る。
脳と一体化している。リアクションがうまくいかないだけで、うまく行かない感覚が強くなる。
図書館だと心地よい距離感がある。
情報との接し方としては良い気がする。
自分の頭の中の世界だけでは気持悪くなる。
takram がやっているのはプログラミング的なものとプロダクト的なものがうまく融合している
間を橋渡しすることができる人達。
建築は情報的なものにはタッチできなくて、
間を可視化するようなことができるといい。

T: 見た目がデジデジしているものはあまりない。
アナログとデジタルとどっちが好きですか?と言われるが。
デジタル的と言っているものは、ハイテクで人間にはまだ違和感があるもの。
アナログ的と言っているものは、人間にとってしっくりとくるものという分け方なのかな?
デジタルはアナログなカーブをデジタル分割していけるけど。
できるだけ人間が感じる感覚が自然に近づいていくる。
自然になったところで、環境に遊離してしまえるところだったり、
大半のプロダクトは、一歩目のところで壁がある。そもそもやるところまで到達できていない。
テクニカルなところとして、どういう状態にすれば、二歩目の話ができるのかな?
毎回ものを作っていく時に、二歩目の話ができるのかを考えている。
プロトタイプを作って、チューニングすることで、少しづつ近づいている。

■ローカルルールとグローバルエフェクト

T: 一昨年、伊東豊雄さんとご一緒した時に出てきたキーワード。
「風鈴」天井から 300個くらいぶら下がっていて、下を歩くと真上にある風鈴がなって光る。
自分の周辺に6個同じ形をした風鈴に、メッセージを投げて、近傍の6個に伝達する。

takuram-furin.jpg

光の波紋が広がっていく展示。
その時に考えていたキーワードが、ローカルルールと、グローバルエフェクト。
魚が群れで動いていく時に、魚の一匹一匹は、群れを作ろうと思っているのではなく、
自分と隣の魚と平行にするように、角度を保つように泳いでいる。
自然と群れになる。
ひとつ1つの構成要素がもっているシンプルな要素だけを決めておく。
群として振舞いや形状がでてくる。グローバルな効果がある。

個別のもの、全体のもの。
建築でも形の中で考えているものがある?
ローカルなルールで考えているもののはある?

F: むずかしいんですよね。
今の話興味があって、碁盤目に街を切っていくのは大きな枠組みがあって、
だんだん細かいところがある。魚の群れとは違う。
特に集落的なもの、時間をかけて作られた街は、そういうものがある。
外側からみるとルールは無いのだが、だんだん平衡状態でうまくいく。
それが次の建築だと10数十年前は思った。
建築は人の動き、振舞いを容認できるが、
同じようなことを建築でやると翻訳に苦労する。
不完全な翻訳しかできていないんじゃないだろうか?
誤訳も含めて、建築の可能性を拡張していける。

35cm という距離があって、
それ以外は否定されていない。
フロアの形とかをデザインしている。ある。大きなルールは入ってきている。
建物全体は規定しないのだが、局所的なものを規定すると
家というものが湧き出てこないだろうか?
考え方にインスピレーションを受けているが、それを正確に語るには無理がある。

入れ子という形を使った家がある。
局所的な関係性だけで規定される、マトリョーシカがそれにあたる。
入れ子は何かは何かの内側である。そのうえ何かの外側でもある。
それがローカルルールのある種の建築的は翻訳となるのではないか?
建築は中と外という問題と切り離せない。
不思議な入れ子状の建築は面白いのではないか?
誰かがこういった。外側は察知した。一番外側は何が起こっているかわからない。

絶対的な中はあるのだが、中なのだが外なのだが、宙ぶらりんのまま連続していく。
人が関わる時に豊かさになるのではないかと考えた。
インスピレーションをさなかに受けているが、
正確に建築に変換する技がわかっていない。
けっこう本気に考えている。
人がかかわってきた時に、ある種の現象が起こるのだろうか?
非常に興味を持っているのは確か。

T: 写真とかを拝見している限りでは、そのあたりが好きなのかと。
F: そこが限定。仕事も無いときに新しい建築は無いかと考えていた。
 いまだに追い続けている。
 最近は興味が多岐にわたっている。武蔵野美術大学の時は本を見つける。本を見つけない。
どちらが湧き出てくるのか分からないのが面白いと思った。
建築はある意味、不確定な要素が無い。
人間の多様性を受け止めるために、広大な領域を残しておかなければいけない。
最近はそういうところに興味がある。

T: そういう考え方をする建築家は多数派?
F: 建築家はそういうことをまじめに議論しない。
僕らの世代はそういうことをベースに何かを考えたい。
トレンドというわけではないか、何かがあるのではないかということだけは共有している。

■家

F: どういう家で育ったのかな?
T: 二世帯住宅。僕のうちは祖母の家の庭に、家を作って、その間を細い廊下でつながれている家。
 めずらしい家。祖母の家はしっくいで出来ているような古い家。瓦の感じ。
 住んでいた家はモダンな感じ。建築家がつくってもらい、施工した。
 両親はこだわって作った家のよう。
 廊下がすごく好きで、古い家と新しい家で床のレベルがちょっと違う。
 おばあちゃんの家にいくには下がっていく。開け放すと段差をもって繋がっていて、
 接続されている台所までは、おばあちゃんのゆるやかな領域。

F: ひとことで家って言っても、なかなかとらえどころが無い。
 家を設計している身でも。
 どういう家がこれからの時代、人々にとって豊かなのかな?
T: 今はマンションの部屋を借り手いる。
 オフィスを作った時は一生懸命つくった。松井亮氏にお願いした。
 小さい箱がいっぱいあるよりも、大きな空間の方がいい。
 箱を置いて、マーキングしてまわる。

F: 今工事している家、ご夫婦なのですが、 
家の中でプラプラどこで何するという感じではなく、こっちで何か、あっちで何かするような家
小さい床は段差をつけて、登れるくらいの段差を作り 20個くらい、床レベルの差があるような家
を思いついて、おそるおそる提案したら、いいねと言ってもらえた。ジャストフィットした。
マーキングしなたら住んでいくような家。

T: 必要な時に増えてくれるような家が欲しい。風船のような。
 ある時期場所が必要だったり、一日の中でも変わる。
 小分けの家よりも、大きな家の方がいいが、実際のところ出来ないので。
 寝る時には天井が低くなったり。
ただ広いだけだと寝心地が悪い。

F: 狭いとこ好きなので、寝るところは狭いところにしたい。
 育ったのが北海道なのだが、広いところに居るのは若干危険。
 雑木林で遊んでいると、閉ざされておらず、どこにでも行ける。
 あの感覚が快適さの感覚のベースにあるように思える。
 何もなくてだだっ広いと不安になる。
 閉じてない空間がいいところ。
 
■試行錯誤の方法

T: 建築つくって居る時の試行錯誤は?
F: 僕も聞きたい。普通にドロドロやっている。
模型と図面の比率は?
だいたい模型。頭の中のキャパがそれほど無いので、出していかないと。
スタッフに言うなり、模型として自分の外に引き出さないと思考が進展しない。

T: 作る模型は、何案か作ってみるのか?1案作るのか?
F: 色々並べながら考える感じがある。たまにある状況で「絶対これでしょ」というのは
 ごくまれなこと。
思いついたことを形にしてみて。
今やっているプロジェクトや昔のプロジェクトや、原始的情報空間があって、
そこをプラプラしながら、それらが生き物が進化していくように、
急にそれが、こういうことなんじゃないか。とドロドロと形になっていく。

T:実寸で模型は作れない。サイズ感がポイントになる。そこらへんのつじつまは?
F: けっこう最近、ようやく10個くらいの建築を作って、最初の5個はあまりうまくいかなくって、
模型で観ていて、良さげだな。大丈夫そうだな。というのは大丈夫だが良いスケール感なのだが、
つながりがあるのかどうかわからない。
実物が出来た時は、良い方に驚きをもって出来上がる方が多い。

そこに迷いを生じさせると無限にわからないスパイラルになるので、
決め所は、えいやっで。

構想段階の模型はいっぱいある。
1/20 の模型を作る。一回作ると、作ったはいいけど、簡単には変えられないあきらめがある。
物理的なあきらめも良い意味で背中を押してくれる。
相当無駄な作業をしているように思えるが、
その作業をしないと安心できない。
持ってみないと分からない時はある。
建築は、模型でも中を覗き込んで分かるし、全体の世界観の両方を
シームレスに確認することができる。やはり必要なもの。

Q: クリエイティブの技は
A:
F: なんか最近、事務所に行くとスイッチが入る。思考が始まる。事務所から出ると廃人っぽくなる。
  ただ、東京の街が結構好き。行き来する時も、街を歩くのは刺激になる。
  日本以外の国に呼んでもらう時もあり、違う気分になり新鮮に思える時もある。
T: とにかく自分が無意識に使えるものへのあこがれ。どうやったらこんなに自然になっているのかを
 観察するのが好き。それが多分一番心がけていること。
 あまり自然に作っちゃいかん。と思っている。違和感の中で物がどこに着地しているのかを考える。
 
Q: 人がある環境でどのように振る舞うのかの仮説。
A: F: 建築模型をのぞいて、人の動きを考えているのは確か。
 普段の生活になると自身が無いのだが。 
 普段何も心がけていない。
 ただ、自分の身体感覚みたいなものを、面白い場所にふと気づいたりというのはある。
 T: 人間がどういう環境でどういう振舞いをするのかを、研ぎすまそうと考えているが、
 面白いように外れる。人間とからみあってどうするのかを予想するのだが、
 人によってもズレが生じる。プロジェクトによってはズレが極大化するように
 わざわざ作る時もある。あまり形式に落とし込めるようなものはまったく見当たらない。
実験室的なクリーンな環境なら成り立つが。
満員電車の中と、ゆったりと落ち着いた環境の中で使われるものはあてはまらない。
目の前の状況で、自分たちがこう動いてほしいという行動、バランスされた状態に
動かしていくためのサイクル。観察とユーザーと一緒に起こっていく何かを考えていく。
観察、実行のサイクル。そこを少し強くしていける部分がある。

Q: 物理的な空間で考えている時の「地と図」はどのように見えているのか?
 iPhone などのデバイス、建築の中に入ってくる際の融合は?

F: 情報空間における「地と図」あんまり良くわかっているわけではない。
 なんとなく、今の情報空間はまだまだ複雑さが足りない。
 関係があるにしても、奥行きはあまりにも複雑さが足りない。
 変換が起これば起こるほど面白くなる。
 ある目的のために発信されている情報があるだけでは面白いことが起こってこない。
 建築と情報の融合は、可能性を感じたい部分ではある。
 図書館でも情報デバイスは出来てくる。タッチパネルを設置するだけでしかない。
 そこにはまだまだ違和感が多い。人間が建築の中で受ける視覚情報、空間の体感情報。
 デバイスを置いてあるところに行って、何かおこなわなければいけないのはギャップがある。
 そこがシームレスになれば良いというわけではない。
 違う楽しみとして情報に親しめるようになればよい。VRとかARではない、
 人間の違う身体性を刺激してもらえるものがあるといい。
 建築家としては、そちらに足をつっこむというよりは、
 人間が感じる快適さは、完成は変わってくる。
 情報デバイスが有る無しにかかわらず、新しい感覚に形を与えたい。
 
T: インターネット、情報空間の「地と図」ハイパーリンクで結びつけられている、
 空間の地と図、注目している背景側に「地」と感じることができない。 
 背景と手前の対象があって、注目物と背景の相対関係が自分の移動によって
 距離感が変わる。自分のアクションによって情報が入ってくるが、
 そういう形で Web を泳いでいくことができていない。
 リアルに持っている。目が2つあって奥行きがわかるという話に戻っていく。
物事に相対を感じさせる、そういったタイプの表現が必要。
僕らがWeb とか、そういうことを求めていないことがわかって、
情報が検索する時は、ピンポイントで飛んでいく。
情報世界で、図と図と図と図という間の中で、地なのか図なのかわからない、
違う相対化のやり方があるのかもしれないと考えている。
建築に情報を入れていくというのは、僕Avatarを観ていて違和感がある。
横から見ると違和感がある。コンピュータスクリーンで見る状態と、
建築に情報が埋め込まれることの差は、人間が動くこと。
人間が動くことによって、空間状に意味を持つ。
情報側がどのように反応を返すことができるか?
人間が情報の距離感覚にスタティックな情報を埋め込んでも意味がない。
人間の位置や向き、目の角度で情報が変化するような技術が
完璧に実現した時に、一段飛躍したような情報表現がありうるのかなと考える。


藤本壮介|原初的な未来の建築