[&] Achille Castiglioni * Yosuke Taki
デザインの本質と身体のメソッド - 多木陽介
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■地球的想像力
多木さん:
多木ともうします。最近は展覧会を作る仕事が多くて、
展示の会場構成をしたりしています。
今日は、4月にヒカリエで話したことを、
トリノの工科大学でまとめなおしたので、それをお話しします。
地球的想像力とはどういうことなのか?地球のための想像力は何だろう。
ここのところずーっと考えているのですが、
イタリアの近代美術の人、カスティリオーニについて本を書いたのですが、
もし今も生きていたら、どうしているだろう?と考えて。
カスティリオーニから何を学ぶだろうか?
ノウハウもあるのですが、二つ大事なことがあります。
カスティリオーニが生きた時代。1940年代から、お兄さんたちと
仕事をはじめて 2002年に亡くなるまで仕事してきて、
1950年代イタリアンデザインが世界に進出するとともに出て来た人。
自分がいきて来た時代に本当に必要なものは何だろうと考えた人。
産業世界の申し子なのに、科学よりも、仕事の仕方をみていくと、
ものすごく自然に近いところがある。
はるかにエコロジーに近い、自然に近い想像をしているといえる。
この世代が現代にいたら何をするだろうか?
企業のためのプロダクトデザイナーはしていないんじゃないかと思う。
イタリアでは、会社、インハウスのデザイナーという考えは無いです。
個人か、デザイン事務所で、企業と働きます。
企業に対してデザイナーが意見を言う幅が大きかった。
何を作るかということに対して、かなり意識的に
デザイナー達が意見を言うことができた。
今の時代なら、別のところに行っているかもしれない。
世界の中のいろんな分野に居ます。建築、教育、文化、職の問題も。
いろんな分野にいるのですがどこかに共通しているところがあります。
共通する想像力があります。
なんでそう考えるかとういと、単にデザイナーということではなく、
すべてに想像力があり、クリエイティビティをもって
よかれと思ってやっていることがかなりのカタストロフィーがあります。
われわれが学生のころは、考えなかったが、
環境、精神など、いろいろ危ないことになっている。
生産力や想像力が原因にあります。
カタストロフィーを生まない想像力はあるんだろうか?
今いったような人たちには凄くあります。
ある意味でいうと、カスティリオーニのやってきたことは
その祖先にあります。
彼らに学ぶことがあるだろうと、そういうつもりで
今日の話しをします。
自然に近いよ!という話しをしました。
「プロジェッタツィオーネ progettazione 」
プロジェクトを企画して実践して、作る。
日本語に訳そうとすると、デザインする、設計する、プロジェクトを作る。
非常に幅の広いことば。
イタリアはデザインのメッカなのですが、学校ができるのは
非常に遅かった。上の世代はほとんどプロジェッタツィオーネ
ということばを使っていた。
プロジェッタツィオーネ ≒ デザイン
デザインは、ものの色と形を作る仕事ではない。
一般人にとっては色と形と思われているが、大きく違いいます。
プロジェッタティスタ (progettista)
と言っていました。それをみるとわかります。
1. 肩書きは建築家
中には文系の人も居ました。すぐデザインをやるのではなく、
2. スプーンから都市まで何でも作った
幅の広い教養をもって、スプーンから都市までなんでも作った。
デザインの専門家は無く、人間を扱うので、
クライアント次第で何でもデザインしていきました。
小さいものから、家から、都市から、都市の照明計画まで。
3. 文化、経済、政治、社会などの多様な面においての判断批判能力があった
現代のどういう経済の仕組みがあって、それが良いことなのか?
緊縮経済と、首を絞められたギリシャは大変なことになったし、
成長を目指して余裕を持つことで、国民が力をもって経済を回復する?
地球の資源も限界にきているときに、成長し続けるのは無理。
経済学者はさっぱりそういうことを心配しない。
どんどん豊かな国が成長し続ける余裕があるわけがない。
まったく違い形の経済を考えなければいけないのだが、
そういう政治家は居ない。右肩下がりでも継続性のある社会にならない。
ものを作るものとして知っておく責任がある。
4. 多様な専門家とコラボレーションを通して、
あらゆる段階の作業を管理しながら、
人間の生活環境の改善を目指す仕事。
始めから終わりまでを考える。
いろんな専門家とつきあって、その全部を管理する総監督
みたいな立場がプロジェッティスタ。
最終的な目標は企業の利益ではなく、人の生活環境の改善。
企業はもうからないといけないが、社会がダメージを受けてはいけない。
農業を考えると種まきから収穫まで全部やるのですが、
デザインの場合、全部のフェーズを管理できるかというと
そうではない。社会がそうなってしまったこともあるし、
デザイナーが自立した責任を持つよう。
5. 専門領域というりょりは、多様な領域を通貨しながら考え、
実践する仕事
幅の広い準備をしておく。
一つの専門分野だけではいけない。
プロジェッタツィオーネ =
「生産」の問題のあらゆる側面を包括的に扱う仕事
生産の流れ例:プラスティックの生成と流れ
石油採掘
石油精製
原料加工
製品開発
デザイン
製品の生産
輸送販売
消費者による使用
ゴミ収集再利用
こういう流れの中でデザイナーの守備範囲は狭いところに押し込められている
プロジェクタツィオーネは幅広く目を配っていた。
目を届かせて、役立つデザインを考えることをしていた。
Progettazione
pro(前に) + gettare (投射する/投げる)
前に投げる、前に進め。前傾姿勢の言葉。
19世紀になってくる時に、ひたすら進歩して先に進もう。
かなり破壊的に、過去を捨てて先に進もう。
合理主義の建築は様式を捨てて、直線だけで建築を作ろうとしたが、
逆の流れもあった。
そこにはただ生産の合理化、能率化を図る合理思考ではなく、
そういう生産が正しいのかどうかを問う後ろ婿の
反省的思考も含まれていた。
デザインがかなりかかわっているし、生活に関わっている。
iPhone は何億人の生活を変えた。便利にはなったが、
折角直立して、視界が良くなったのだが、スマホで下を向き始めた。
Progettazione は、そこまで考えた上で、これは本当にやっていいのか?
と考える。今の Samsung にしても Apple にしても、
皆が欲しがるから儲かるから作ればいいやと考えている。
環境に対して良いものか良く無いものかは考えずにやっている。
これやってもいいのだろうか?
という反省的な思考がものすごくあった。
ひたすら前傾姿勢で、前進しか知らない文化
スローフードインターナショナルという、世界的なアソシエーション
ファーストフードに対抗して、きちんとした
食料産業が作るものではなく、美味しくて健康なものを食べることを
大切にする。かなり本格的な仕事をしている素晴らしい団体です。
我々の文明はあぶない崖にむかって直進しています。
もしこのまま行くと、崖から落ちてしまいます。
どこかで後戻りしなければいけません。
後戻りする時に声を聞かなければ行けないのは、一番後ろに居る人です。
だから、プロジェッタティスタたちのまなざしが必要になる。
彼らの特徴:
いつも後ろを向きながら前進して作る。
いまより進化していなければ、作るのを辞めてしまう。
アッキレ・カスティリオーニ
ある批評家が歴史的な合理主義者だと
過去を完全に切り捨てて先に進もうと、
かならず何か世の中にあるものに目をつけて、
そこから知恵をもらいながら、ゆっくりものを作るひとだった。
アルコという照明器具
なぜ後ろを観るのかというと、
今世の中にあるものは、
紙でもいいし、服でもいいし、机でもいいし、
今ここにあるものは、あるプロセスで誰かが考えて、ここに来ている。
知恵の質によって違う。今あることだけを考えるのではなく、
ここにくるまでのプロセスがあって、ここにきている。
ダイナミックな視点で考える。
昔どうだったのか、現在の姿から推論しなければいけなかった。
我々の周りにあるものを徹底して疑って。
形の美しさだけではなく、何か探求の結果。
フリスビーという照明。
照明器具は形を考えるのは一番最後。
光から考え、問題の後ろに戻ってかんがえる。
形よりもどんな光が必要か?
テーブルにある部屋にどんな光が必要か?
全部綺麗に整理していて、
食卓の場合、テーブルの上ははっきり明るくなければいけない。
食べるものがはっきり見えないと良くない。
お互いの皆、食べる人たち、姿が見えないといけない。
食べる人の目に直接明かりが入るとうるさい。
それらの要素がある。
今、穴が空いた円盤がぶら下がっている。
テーブルの上は直接の光が落ちます。
円盤でやわらかい光が広がり、
部屋全体もわずかに広がります。
たった一つの光源で3つの種類の光を生み出して成功しています。
食卓にはどんな光が必要なのか考えたから
出来たことです。
光よりも形が主になった照明器具は良くない。
これがあることがどうなのか?かなりラジカルに考えた人が
バーナード・ルドルフスキー
イームズの椅子など、素材であったり、形であったり、色であったり、
座りごこちであったり、加工技術であったり、
デザインを考える前に、本当に考えたのは、
椅子が座るのに最も居心地のようい道具であるかどうかを問うてみた。
世界には椅子以外にも実に多彩な座り方、居方がある。
座ったり、ねころがったり、無数のポジションがある。
椅子のおかげで、多様な体勢が泣くナッtあ。
椅子によって抑圧されてしまった多様な座り方。
なんとなく使っているコンピュータも、
この高さの机で使うことを考えた形になっています。
なぜそうなっているかというと、
椅子がその形なのは、本当にそれがいいのか?
椅子じゃないものを考えた方がいいのか?
カスティリオーニの場合、後ろへ退行する歩どりは
まずものの観察と分析から始まる。
自明と思われる現状を疑うことから始めていた。
水を入れる形はコップでいいのか?
これで本当にいいのか?もしかしたら違う解答があるかもしれない。
疑い、観察し、考える
現状を疑問に対し、過去にもどりながら考える。
カスティリオーニの観察
一見がらくたにしか見えないものを持ってきます
一つ一つ解説し始めてくれます。
われわれがいかにぼんやり身の回りをみてきたのかを
きづかされます。
ものは、論理的にある程度までは解読できます。
1. あるものを成り立たせている主要要素は何か?
デザインのポイントはどこにあるのか?
普通は時計のデザインというと、文字盤、バンドを言うが、
腕時計というものが、成り立っている一番のポイントは
何かというと、実は体の中で、手首に時計を置いたということです。
男性は懐中時計を出して、フタを開けてやっと時間を見ていたのです。
腕時計は、ぱっと 0.数秒で観れるわけです。
兵士が手榴弾を投げる時に、安全ピンを外して何秒か待つのですが、
腕に時計を巻き付けていたのを見て、始まったのです。
ある意味、誰かが手首意外でいいポジションを発見すれば、
腕時計以上のものになるかもしれません。まだそれ以上のものは無いです。
2. どんな知恵が隠れているか?
昔は写真フィルムがあって、カメラのフィルムは、丸くなります。
カメラのフィルムをくりぬいてつくったサングラスです。
かなりしっかりしていて、軽いし、光を遮るし、
フィルムケースに入れて持ち帰れます。
ほとんど一種類の素材で出来ていますから、型で作れるし、
機能はあるし、軽いし、非常に優れたものです。
ものにはどこかに知恵があって作られています。
それをまず見抜こうとしています。
3. 機能とフォルムの関係
はさみとか、ハンマーとか、伝統的な道具は、
形と機能の間に論理的な関係があります。
ハサミにもいろんな種類がありますが、
床屋さんのハサミ、ベロが無いと、
かなりのスピードで使うときに、だてに着いているのではなく、
床屋の仕事において、決定的に大切。
裁ちバサミ、ずいぶん違って、指が全部入ってしまう。
大きい布を滑らせながら切る。
指があたっては滑らないので、わざわざこうなっている。
理由がある。無駄が無い。
自分がものを作るときに最終的に、
一番大事な機能が連結していることを好む。
4. ものの中に潜む、歴史的社会的影響
ブリキのおもちゃ。
ビール缶を切って作ってある。
オモチャを作る人が塗装すると高くなってしまう。
ちまたにあるブリキの缶、煙草の缶を切ってつくると、
美しいグラフィックがある。ジープのオモチャなど。
こういうところから何を読み取っていたか?
歴史的条件が色濃くでることがある。
今の日本ではありえないこと。
わざわざ作ることはあるが、社会の状況でどうしてもこうなって
しまったものを見抜いていく必要がある。
ブルーノ・ムナーリのサングラス
白ボール紙で出来ています。
ベラを加減することで光の量を加減することができます。
普通サングラスというと、色や形、レンズの形にいってしまうが、
レンズに縛られないで、名詞の下にどんな動詞が隠れているか?
目に入る光の量を調整することがサングラス。
物質的な条件から解放されるから、何を作ってもいい。
5. 名詞の下の動詞を考えてみると....
今の世の中にあるものは、まぶしいのを遮る、
可能性の中の一つ。もっと良いものがあるかもしれない。
伝統的だから良いかというと、かならずしもそうではない。
本当に奥にある理由。名詞の下の動詞まで考えると思い当たる。
ものすごい自由になる。
ここまでは論理的に分析すればだれもたどり着けるが。
6. 創造的解読(読み替え)
ものを別のものに読み替えてしまいます。
大理石の職人が目を守る為のゴーグル。
元は茶こしなんです。これを面にあてている。
別の用途として世の中にあったものを作り替える。転用する。
同じようなことをよくやる。
簡易スリッパ
奥さんに怒られていたらしいのですが、
90年代になってから、ひとり用のソファーを作ったのですが、
スリッパがヒントになったものです。
アルミの短いパイプが数珠のようにつながっていて、
中にワイヤーが入っています。柄があって、ハンドルがあって、
ワイヤーがピンとはって、棒になります。
何のための道具というと、ライフルの銃口の掃除道具、
こんなものを何にしようとしていたかということ、
照明器具にしようとしていた。
レストランでろうそくに火をつけてもらう代わりに、
とぐろ巻いたものがあって、レバーを動かすと、
ピンと張って、客を驚かせてやろうと考えたのですが、
出来上がらないままでした。
あるものを何かに化けさせているのです。
どんなものでも、見方、使い方で別のものになる
可能性があります。
僕らの演劇の世界では良くあることで、
古典芸能では、扇が様々なことに使います。
お箸、杯、のこぎりになるし、弓にもなります。
うまい人がやると矢が飛んだように見えます。
目の前には扇を見続けているのですが、
その瞬間には別のものに見えるのです。
ピーターブルック、演出家は、こういう表現のしかたを良く使うのですが、
マハーバーラタという9時間もある、世界一長い話し。
要約すると、神様もかかわってくるような広大な合戦の話し。
一番大事なところ、戦争を始める時に、
世界一の弓の使い手、この矢を射ったら、戦争が始まってしまう。
クリシュナという神がやってきて、
大きな宇宙の摂理の中では、ひつような事だと説得され、
弓を居るのですが、舞台ではただの棒を使っています。
弓を射る時に、全員がストップモーションで、
クリシュナが将軍のところまで矢を歩いていくのです。
最後に矢がささって、皆が目をさますのです。
竹の棒がすすんでいるときに、想像力の中で矢を見ています。
ただの矢ではなく、死が近づいていることが読み取れます。
リアルな矢ではそういうことはできません。
単純なものの方がいいのですが、ある他のものにも見えるのです。
ペットボトル、舞台のうえで優秀な俳優が使えば、
聖なる容器に見えたりもするのです。
どんなものでも別なものに見る能力があるのです。
世の中ではどんどんそういうことが起こっている。
自分でもいろんな形で転用し、機能を転用して作っている。
モノの世界ではそういうことがおきる。
無数にデータが出てくる。全部集積していて、
ものの世界の地図帖ができていた。
ものの世界は、実はいろんな形で読み替えていて
AとBが交換されたり、移動したり、機能だけ違うところにあったり。
竹の棒が変身していくもの。
そうすると、ものの世界の地図帖はある意味、
神話の空間みたい。
神話は似たような話しが沢山ある。
熊と女性が結婚する。男と女性が結婚する。
同じような意味で扱われる。全然違うと理性では考えるのだが、
異文がどんどん出てくる世界。
それと似たようなことが地図帖のなかで起きてくる。
ものの下の無意識の層に至る神秘的思考
後ろ向き?下に向かって根っこに向かって降りていく、
下降する作業がはっきり見えてくるのは?
エンツォ・マーリ
彼は他の人と違って美術学校の出身で、
最初は芸術家。ものすごく社会学者のような人。
この人が日本に縁があって。
波佐見におけるワークショップ 2001,2002年。
絵付け師の人と。
波佐見は、高級焼き物ではなく、日用食器の製品で有名。
伝統工芸師の問題:
手の技術には優れるが脳の技術に欠ける
ものは非常に見事に作れるか、ひたすらそれをくりかえしてきたため、
それのどこがいいのか?そういう問うて判断する能力が
なくなってしまった。
なんとか回復させてあげないと。
デザイナーが地方の伝統工芸と作品作ることがありますが、
自分たちの作品をいきいきしたものにすることにはなっていない。
日々の作業の中で自らの創造行為に生命力を注ぐ術を知らない。
自分たちで日々、生命力をそそぐ手段を
自分たちでわかるようにしようとした。
絵付け師に絵を描くことをもう一度
より幅広く、より基本的な形で勉強し直させた。
ウサギを描くとなると、書き方が決まっていた。
自分たちが考えて作り直したものではなく、
なぜそのように描くのか考えたことは無かった
ワークショップの最初にしたことは、
自分たちと違う文化から、ウサギの絵をさがしてきて、
どんな特徴があるのか?レパートリーが広がるかもしれない。
写生をすることで素敵なポーズがみつかるかもしれない。
構図でもっと良いものが見つかるかもしれない。
幅を拡げる仕事をしてみた。
書道の先生を呼んできて、
絵を描く人よりも、書を描く人の方が、筆を使う技が数段上。
技術の基本が筆。もっと鍛え直そうということで、
技術のパターンを習う。
そういうことをしながら、いろいろ出てきて、
結局何をしたのか?
プロジェッタツィオーネの木
生産活動の総体を大きな木。
地面で見えている部分があるのが文化の精神構造。
地面にあたるところが自然。
それぞれのグループ、それぞれの分野、
建築、デザイン、芸術、教育、医療などの各分野。
20世紀でどんどん大きくなり、一つ一つの仕事は枝の先っぽ。
伝統工芸といえども、枝の先っぽ。
ものすごく洗練された特殊技術も、枝の先っぽ。
根からすごく遠いところにいる。
枝の先に閉じこもって仕事をしているだけでは多様性に欠ける。
やがてひからびて、枯れてしまう。
枝先にいる絵付け師に、他の文化の絵画を学ばせたり、
書道を学んだり、
いちどだいぶ太い枝まで降りてくる。
書道は、絵画とは少し違うので、けっこう下までこなければいけない。
何をしていたかというと、大きな木の図式の中で、
ひたすら下におろそうとして、
下になれば、豊かな樹液、活力のあるとこに降りてくる作業。
深い根に帰ってから、もう一度枝先に戻って生産する、二重のベクトル
先っぽだけでは作らない、なるべく根までいって、
もういっかい上に上がって作る。
二通りのベクトルがバランス良くあった人。
特に大きな都市にいると、枝先に行くだけ。
5. 日本に根付いたプロジェッタツィオーネ
城谷耕生
消費社会でものを作るのがイヤになって、
教師のような形で仕事をしている。
その中で、一つ、唐津で講義をしていたことがあって、
ひと・もの作り唐津プロジェクト 2008-2012
若い作家にいい教育をしたい。
非常に面白い授業をしました。
唐津だと、作家性が強いのですが、
器は食べ物を盛るので、脇役。器の本来の姿にかえって考える。
器の前に、食と考えて器を作ってみようという授業。
一番最初に、唐津で取れる高菜、高菜とゲンコウ(ゆず)、ゴボウ
土地の野菜、貴重な野菜を選んで、
農家に送り込んで、どういう条件でどういう配慮をしながら
育てるのか克明に聞いて、そこから野菜をもらって来て、
伝統食と、フレンチのシェフと3種類の野菜を持っていって、
現代の生活にあうレシピを考えてください!
レシピを考えてもらった。
有機野菜で有名なシェフは二十数種類考えて、
フレンチのシェフも何種類も、盛りつけも考えてくれて、
その中から3つ料理を選んで、やっとその後に器を作ることに入る。
普通、お皿はこういうもの、小鉢はこういうもの、
パターンが決まっている。
それに合わせてだいたいこんなもんだろう。
あとは美的意識で作っていく。
野菜の時点から、同じ土から取れた野菜が、
映えるようにするにはどんな器を作ったらよいか
考えた時に、いままで考えたいたような色、形、質感とは
まったく違った考えになる。
アジの昆布締め
味が強いので、
そんなに量は食べない。
それにあわせたテクスチャで作る。
単に小さいのではなく、意味があって、小さい。
普段の器の作り方では無かったこと。
ゴボウのショウガ煮。角をもった食材なので。
パスタ。色が美しかったので、それが映える額縁を作った。
皿の大きさ、深さ、仕上げ、色彩などの
意味を料理に対応しながら始めて有機的に理解。
機能の探求の果てにフォルムにたどり着くプロジェッタツィオーネ
自然のプロジェッタツィオーネ
マーガレットの花、
花のどの部分をとっても勝手に作られているものはなく、
次の世代に役立つように、作られている。
デザインが厳密に、花のように美しいものであれば、素晴らしい。
それぞれの花は、ターゲットにいる虫が決まっている。
マーガレットがターゲットにしている虫がすごく小さい。
遠くから飛んでいる虫には見つからないので、複数の花びらになっている。
陶、食、農という本来一つであったが、
近代化の中で専門文化した
3つの知恵と技術の体系が再融合された。
ほとんどみんなエステティックにしか考えておらず、
実は論理的な機能がある。
やっとわかってきたこと。
3つの知恵と技術の体験がつながった。
農業は自然といっしょに、自然とふれあう。
食(ガストロノミー)は、非常に長い道のりがある。
陶、までつなげる仕事。
同じ図式をインダストリアルの仕事に置き換えると....
石油採掘→石油精製→原料加工→製品開発→デザイン→製品の生産→消費→再利用/再生
ゴミに出す出し方も結構困る
どれだけ再生できるか?
第七大陸
北太平洋にプラスチックの大陸があるんです。
水面には浮いていないので、人工衛星では見えないのですが、
ヨットで横切っている時にに発見された。
相当の大きさ。
プラスチックが何十年もの間に、捨ててきたものが流れ着く。
ほとんどバラバラになって、海面よりちょっと下から、
水深30メートルぐらいまで。
庭園の専門、ランドスケープ、
ジルクレマンの絵。抽象化したもの。
木は成長して、サイクルになっている。
文明もサイクルを持つ必要がある。
こういうことをして行かなければいけない。
どいういう想像力を作るのか?
こういうことを考える想像力。
21世紀のプロジェッティスタ
課題はさらに幅広い
一本の木の見えるところだけではなく、
地中を含め、森全体を意識したプロジェッタツィオーネが必要
6. 歴史の想像力の木
我々が日々、作っている歴史の想像力の図式にもなる。
歴史は、英語だと History ですが、
ヨーロッパではストーリーでもある。
何かしながら、書き続けている物語。
われわれがどんな想像力でこの木を運営しているかというと、
人間の生産活動の総体(文明、社会)
イタリアに行くと、ちょっと違う
バランスがかなり大事。
今の時代では、文明とか社会とは、技術によって
作られているシステムは、我々の意思を超えて勝手に動いている。
歴史:文明社会/自然/精神構造(心)
バランスよく、うまくからまっていく、
人間一人も同じ。この3つで我々の存在が出来ている。
精神と体が遠くなってくる。
フィジカルなトレーニングで、それを取り戻すきっかけ。
ただテクノロジーだけでなく、技術、それによって、
自然や精神が圧迫を受けていて、
ヒエラルキーの構造になっている。
テレビをつけたとき、歴史の番組だと、
文明と社会のことばかりで、精神構造、自然が出てくることは無い。
ところがそればかりだと、抑圧されたり搾取すれば良い対象になってしまう。
自然は歴史とは違うものとして扱われてしまう。
地球的想像力、
こういう歴史を日々作っている、アンバランスな状態を意識して、
そうじゃないバランスを作るための仕事、
想像力を自分はどうやって作れるのか?
みなさん次第。
どうやってバランスをとり直して作るのか?
あらゆる人たちに大事なテーマ。
長谷川さん:イタリアでの活動、我々の物質社会で失われていること、
日本の近代化されたデザイン、教育が、日本においては、
あまり当たり前ではなく、人工的な印象を持っています。
日本であればバウハウス的な教育があったり、
日本のそれこそ陶芸のお話しのような、
今は細分化されていて、商業化されてしまっているが、
日本の伝統芸能生まれていた頃は、
日本は自然をとらえていたのではないか?
多木さん:昔は伝統工芸などとは言わないで陶芸していた人は、
自然とつながって作っていた。なんでこういう風にするのが
いいことなのか、考えながら時代の人たちはやっていた。
技術は高いのかもしれないが。
例えば、漆塗りの人たちは、すごい技術を持っているが、
何のためにそれをやるのか?とんでもない用途があるのかもしれない。
これだけ正確な平面が作れる時代に、なぜやっているのか?
伝統芸能は、問屋とだけつきあって、
技術は高くなったのだが、社会と関わらず、
過保護で育った時に、自分でたっていけなくなる。
世阿弥が作ったものと違う。様式かされて、ゆっくりしている。
ものすごくスピードが遅くなっている。
狂言、喜劇、テンポがなかったら、笑えない。
喜劇をスローモーションで見ているようなもの。
江戸時代に民衆と関係を失って、
生き延びるために、くらいのたかい武士の趣味、
その趣味に合わせてきた。権力者についたわけで、
権力への風刺が言えなくなっている。
それでもなんとか生き延びようとしてのかもしれないが、
自由な創造ではなく、ゆがめられた形でしかない。
本当に社会と関係を持ったものでは無くなっている。
僕らから言うと、いきた演劇では無い。
伝統工芸の社会では非常に起こっている。
長谷川さん:作る人が最終的に使う/見る人の関係性を持っていた。
陶芸を作る人が、料理のことを考えられていたのだが、
産業化で失われていった。
マーリ氏のワークショップでは、気付かせたということ。
近代的なデザインは限界を迎えていて、
消費者とつながった、多くの人たちが、
その人たち、利用者の人たちとカスタマイズされた社会を
そちらを指向していた。
21世紀のデザイナーの役割、変わりつつある。
多木さん:作家性をめざしていた時代は止めた方がいい。
美しい形を作らないということではない。
それ以上に大事なことがある。
同じようなことを、2-3年前に、伊東とよお さん、
皆の家を作りました。ただの小屋なんです。
自分の意匠を残すということはまったく意味が無い。
何を必要としているのかを作って上げること。
建築家が衣を脱ぎ捨てる。
それは建築の世界だけれども、すごく必要になってくる。
それは形の美しさを無くすことではない。
もっと難しいことかもしれない。
そういう仕事をしている。
もう自分で作品作ることに関心は無い。
1年もたたないうちにバージョンを変えてくれと言われると
作り手としては悲しい。
職人が変わってくれる方がうれしい。
カリスマデザイナーがある産地にいって何か作っても、
職人が身につけることにはならない。商品は売れるかもしれない。
伝統工芸を利用しているだけ。
昔はそういう意識がなかったけれども、
今はそう考えて判断しなければいけない。
会場から:有機的につながっていこうとした時に、
村、街そのものがそれでなりたっていくような作り、
デザイナー、エコビレッジのような形が方向性?
多木:九州の陶芸の産地と仕事をしている時に、
ある学生が、食とからめたプロジェクトで、
次の段階では、村のあり方から変えていかないといけない。
地方でものを作りと、東京に売らないといけないと
考えていたが、逆に村に来てもらおうと、
村全体を変えようと地元の人たちが考えはじめた。
こういうプロダクトを作ればいいということではなく、
かなり広く見ていかないと。
多木:エコビレッジでもうさんくさいのはあって、
どうやって人を集めているのか?
不動産業として人を集めるのか?
外国人が買うと、バカンスには来るが、普段は居ない。
普段から居て、協力するメンバー、
ライフスタイルを共有しないといけない。
結局成り立たない。
■ワークショップ
手を握る伝達ゲーム
お手玉を使った意思伝達
上記の応用例、拍手の伝達
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