[&] The Art of The Dam Keeper
『アート・オブ・ダム・キーパー』発売記念
堤大介&ロバート・コンドウ
http://top.tsite.jp/lifestyle/lifetrend/campaign/28042517/
http://www.tonkohouse.com/news/
●どうやってこの仕事につかれたのか?
ロバート:母はファッションデザイナーでした。
小さかったころ、成績も悪く、ダメな、いつも絵を書いている子供でした。
高校卒業してから、絵の勉強をしようとおもい、美大に通いました。
最初に受験をしたら、落ちてしまい、
ロスにあるアートセンター、名門でどうしてもやりたいと、
アートセンターで最初はいった時、初めてうけたクラスで
であった人がピクサーでインターンを終えて帰ってきた人でした。
彼の経験したピクサーはとても素晴らしく、パラダイスで、
素晴らしくクリエイティブな環境だと聞いて、
その時点でピクサーで働くことが目標だと、自分の目標を決めました。
彼が卒業する間近のとき、プロダクションデザイナーが、
アートセンターにリクルーティングしにきて、
たまたま慕っていた先生がランチをしていた。
たまたまピクサーのデザイナーの人達に、ポートフォリオを見せたいと
たまたまポートフォリオを見せて、そういう偶然が重なって、
「たぶんピクサーの仕事をゲットしたぜ」と言われた。
それで、ピクサーで面接をしてもらえることになって、
面接に行ったとき、ピクサーに入りたいと思っていたので、
面接した人は、みんな知っている有名人で、
モンスターズインクのアートブックを持っていって、面接でサインしてもらおうと持っていった。
さすがに思いとどまって、面接して、
3ヶ月後に働きはじめて、
十数年働き続けてきたけど、いまだにモンスターズインクの本には
誰もサインしていません。
けれど、だから宝物にしています。
堤:ロバートは、一番最初からアートディレクターという凄い人。
絵を全然書いてこなかったので、高校まで野球にあけくれていて、
落書きは好きだったけど、絵を勉強するとはおもっていなかったけれど、
英語ができなかったので絵のクラスを単位のためにとっていた。
カルチャースクールみたいなシステムがあって、
単位とりのためにとっていた絵のクラス。
クラスメイトはおじいちゃんおばあちゃん達が
ものすごく絵のことを褒めてくれて。
日本のカルチャーではあまり褒めなくて、
ものすごく褒められたので、僕は才能があると、本気でおもった。
のせられてしまって、野球が絵にかわった。
アニメーションすら頭になく、ただ絵を書くことを勉強しようとおもい、
周りと比べると、下手だった。NYの美大のときは、
一番経ただったけれど、好きだったので、周りと比べることなしで描くことができた。
アニメーションの世界にはいったのも、
アメリカに残りたくて、アニメーションの世界なら、仕事しながら、
ビザをとれたので。まだ日本に帰りたくなかった。
人と一緒に仕事するのにはまった。
チームで作るところに魅力を感じて、
天職をみつけた感じ。
すごくまわりみちして、
ピクサーに入ったのも、仕事はじめて9年目
●入った時期は?
ロ:2002年、
堤:2007年、その前にブルースカイスタジオ、ルーカスのゲーム会社で2年間
僕とロバート 2007から、2014年の辞めるまで。
●であった時の印象
ロ:結局外から来て、僕のことを知っている人、僕の絵、いろんなプロジェクト、
リーダシップのこと、
最初は怯えていた。一緒にやらなければいけない。
外から、実力があって、有名な人がくると、エゴがあって、うまくいかないんじゃないかと思ったけれど、
さらに成長を求めるという、そういうところにフォーカスしていたので、
すぐに友達にできて、エゴに触れる事無しに仕事することができた。
堤:レミーのアートスタジオで、ライバル会社につとめていたので、
弱小野球部が強いところをナニクソと思っていたので、
どんな人なんだろう?日系人で、変な意識があるわけで、
彼と僕が気が会ったのは、常に何をしたら良くなるのか?
どうしたら成長できるのかを話し合えた。
生意気だから、ここをもうちょっとこうすれば良くない?と言ってしまって、
結構それで、睨まれたんだけれど、
ロバートはピクサー一筋なのに、意見を取り入れてくれた。
だから、意見があった、気があった。
●ピクサーで働いていく中で、自分で監督して作品を作りたいという気持ち、いきさつを。
堤:僕もロバートも監督でいたいという強い気持ちは無かったと思う、
自分の作品を作りたいとは思うが、基本的には映画を作っていて、
絵を書いていて、映画を作るために、映画人として成長するには
何が必要かと常に話し合っていたし、永遠のテーマであった。
自分の作品を作らないと、成長は無いのではないかと思って、
作品を作ろうと話しを持っていったところ、
監督になりたいとかではなく、純粋に映画を作ろうとうことを突き詰めていきたかった。
2012の元旦に、サンフランシスコのカフェで、その話しをもっていったので。
その時の感想を聞いてみましょうか。
ロ:やっぱり常に自分の成長を一番に考えているので、
いまだに監督にこだわりは無く、批判もすごく受けるし、
アートディレクターは、どこか会社のせいにできるし、
監督になった時は、いろいろ言われた時は自分のせい。
ピクサーでたくさんいろんな才能ある人がいて、
チャレンジをもらってきたけど、堤がいちばんチャレンジする人で、
僕もチャレンジするようになってきた。
堤:お互いに、ほんと厳しいので、
なまはんかなものを出してもウンと言ってもらえない。
そういうところで、この人に認められるなら、成長していると思えることがあった。
監督にこだわるより、彼にとってエキサイティングだった。
●二人でお話しを考えていったのか?役割分担はあるのか?
ロ:二人でやるというので、役割分担はしなかった、
成長が一番にかんがえ、未知の世界だったので、
どちらかに任せるわけにいかない。
一本の鉛筆を二人で握って描いていったようなもの。
堤:ダムキーパーの前に5本ぐらい、考え、
ダメなものもつくって、
結構自身をもって、これでできた!と作ったものを
奥さん二人に見せたんです。
ピクサーの仕事が忙しい後に、映画が完成したら三ヶ月休暇をとり、
そこで制作しようと思ったので、
家族が認めてくれないと、作ることはできない。
奥さん達に、お酒を飲ませて相談したら、
「全然面白くない」と言われた。ショックでした。
自分たちがピクサーみたいなところで働いていると
何が難しいかというと、
すばらいい上等なレベルのお話しを常に見ているので、
いいものを知っているので、自分ができないことがものすごく辛い。
ある程度、学生時とかのときにがむしゃらにやるのと、
キャリアがあるときにがむしゃらにやるのは違う。
●ペイントチームは学生も参加した?プロでは無い人も参加した?
ロ:ダムキーパーというプロジェクト自体、僕らが監督一年生なので、
いっしょにやってくれる人が皆同じ気持ちでできないと、
卒業したての美大生が中心のメンバーで、
大変だったのですが、成長している課程で作るという、
堤:彼らのキャリアで、ダムキーパーがあるから今の自分があるとなれば素晴らしいし、
ダムキーパーという作品じたいも素晴らしいものになる。
ピクサーの仲間も手伝ってくれましたが、
一番戦力になったのは学生達。最初の一ヶ月は時間がとられるだけで大変だった。
僕らも計算していなかったぐらい、人の成長はすごかった。
僕らも成長していかないと、できない作品だったので、
誰もが最初は無理だと思っていたが。
●映画祭など、どのような評価がありましたか?
ロ:結果だけ見てしまうと、アカデミー賞ノミネートになりましたが、
最初はぜんぜんひかかからなかった。
全部ボランティアのプロジェクトだったので、
運良くベルリン映画祭に入って、賞はもらえなかったけれど、
そこからちょこちょこ賞をもらえるようになって、
ひとつ、人の評価はあてにならないというと失礼になりますが、
映画祭みたいなものは、いろんな要素で賞をもらうので、
賞によって、作品の価値が上がったり、下がったりするものではない。
面白いたとえ話として、ベルリンに入ったとき、子供映画カテゴリーでした。
ドイツの映画好きで、街全体がすごい。
僕らもVIP扱いされて、
子供の観客が多くて、僕らの映画が一番ハッピーな映画だった、
ダムキーパーが暗めの映画だとしても、それでも、ハッピーな話しだった。
他の子供映画は、奴隷の話しとか、暗かった。
ニューヨークの映画祭でも、いかにダムキーパーが暗いか、と言われ、
どれだけカルチャーが違うかと良くも言われ、
いろんなことが重なりました、
短編で素晴らしい映画もたくさんあり、評価は、僕らも嬉しかったけれど、
惑わされることもあったけど、それに振り回されてはいけないと。
●映画祭で印象的なことがあれば。
ロ;僕らが一番映画祭をまわっていた時に、
人に見せて一番印象に残ったのは、サンフランシスコ映画祭で、
小学校を回るということをして、クラスの皆に見せたのですが、
有名な映画祭で上映してきて、
音声や上映の際の質に気を配っていて、
プロジェクターの質にこだわっていたのですが、
小学校に行った時は、白い黒板にプロジェクターで映して、
スピーカーはそのへんのラップトップでした。
そこで、20人くらいの3年生に、子供達の反応をみても
食い入るように観てくれて、
ブタ君がどうだったとか、キツネ君がどうこうと
僕らが一番伝えたかった、ことが伝わった。
ずっと泣き続けていた子や、
あの話しはどういうことなのか?と子供達がディスカッションをはじめて、
豪華な映画祭やVIPじゃなくて、この瞬間のためだということを
凄く感じました。
●ダムキーパーを制作されて、ピクサーから退社されて、独立。いつから考えていた?
ロ:ダムキーパーが終わって、ピクサーにもどって1年ぐらい。作っている時は
まだ辞めると考えていなかった。
ダムキーパーの経験は、本当にチャレンジングだった、
ここまで出来ないということを痛感した毎日だった。
毎日どこか火がついて、それを毎日消しているという状態だった。
その大変だったのですが、特に最初のほうが大変で、
毎日新しい問題があったが、ピクサーはスムースで、心地が良かった。
毎日大変だった日々を振り返って、ピクサーに戻ると、物足りなくなってしまった。
それが一つの理由としてピクサーを離れるのですが、
まさに毎日火がどっかについていて、毎日消している。
いろんな人を巻き込んで、毎日火を消している。
●独立するのは大きな決断だっと思うのですが、決めては?
堤:この話し、みっつ大きな理由があって、
ダムキーパーの経験がここに繋がっている。
二つは、エドキャトマルが居て、彼がほんと凄い人で、
ピクサーを辞める前に八ヶ月間メンターシップのプログラムがあって、
彼と一緒に過ごしているときに、凄さを知った。
成功から生まれる成長は無い。失敗から成長する。
成功しているピクサーしかみていないとわからない。
ピクサーを始めた本当に大変な時期があるから、今のピクサーがある。
昔のピクサーがものすごく大変だったのにのっかって、
今いい思いをしている。
大変な思いをせずに、今をすごしていて、
なにも将来に残してあげれていない。
なにか残すためには、ピクサーにいてはいけないのでは?と考えた。
子供ができて、人の親になった時に、自分は何で今の仕事をしているだろう?
何にこだわってきたのだろうか?
子供を見たときに、そこは重要でないとおもって、焦りがでてきて、
子供が大人になったときに、自分は居ない、
どこかで自分でなにかやらないといけないと思い始めていた。
●トンコハウスというスタジオですが、ビジョンは?ここから生まれる作品は?
ロ:その、トンコハウスをはじめるときに話したのは「なぜ」
辞める時には何も決まっていなかった。
仕事辞めて不安な時に、なんでピクサーを離れ、なんでトンコハウスをやるのか?
三ヶ月ぐらいは、トンコハウスセラピーという
過去をあらいざらい話し合った。僕らは絵を通じて、
映画を通じて、ストーリーを伝えていこう、そこがコアにあったので、
どんなストーリーを伝えるのか?
堤:自分自身を知らないと話しを伝えられない。
単に表面的に面白いというものではない。
お客さんの心に残るものを作るには、
ピクサーのDNAでもあるのだが、作り手がどこまで自分を掘り下げて
自分の奥深いところまでいけるか。
僕の奥さんも知らないことをロバートはしっている。
一番自分が人間らしいのは、人にも言えないようなダークな部分が多い。
自分が弱いとか、自分が無防備になってしまうところまで
いきつかないと、人の心の扉もあけることはできない。
自分の心を閉ざしていたら、できない。
勇気がいることである。
話しが面白いかどうかは別だが、そこは外さない。
そこは守っていきたい。
●具体的な今後の予定。みどころ。
堤:ムームーという二つ目の作品を作ったのですが、予告編は YouTube で、
東京で観れるのは6月ぐらい、サンノゼの映画祭でデビューしました。
もともと絵本(かわむらげんじ)で、それをもとに、東宝のプロデューサーで、
電車男とか、告白とかを手がけていて、
最初は渋っていたのですが、僕らが今後映画を作るとき、
日本のメンバーと作りたかった、アメリカに居ながらどうやって日本の人達と作れるか?
二作目、CGアニメーションで、これだったら楽にできるだろうとタカをくくってやっていたのですが、
ものすごく大変だった。
途中で止めようかと言うくらい。
無事できあがり、カナダの映画祭で賞をもらいましたし、
是非皆さんも日本で上映される時にはご覧ください。
●今、制作中なのは、ダムーキーバーの長編?
ロ:まだシナリオを作っている段階ですが、ダムキーパーのダムの外に何があるのか?
堤:初期の段階のアイデアスケッチで、来週の金曜日から、銀座のリクルートのG8ギャラリーで
トンコハウス展をやって、初公開のものもお見せするので。
ダムキーパーのグラフィックノベル、コミック本を作っていて、3冊で映画一本分として作っていて、
一冊目がもう少しで終わるので。締め切りがあと一ヶ月なので。絶対終わらせないといけない。
日本のマンガとはちょっと違うのですが。
トンコハウス展 「ダム・キーパー」の旅
http://rcc.recruit.co.jp/g8/exhibition/g8_exh_201603/g8_exh_201603.html
長編映画はフルCGアニメーションでやりたい、ぜひそれを活かしたものを作りたいというのが今のビジョン。
本にも、載ってます。
Q:ストーリーを作るときネガティブなものも描いているのが素晴らしい。ピクサーの中で尊敬している人は?
ロ:ピクサーはファミリー、ダンスキャノン、若い監督、モンスターズユニバーシティ、初監督作品だった。
実際違う監督だったのが、うまくいかなくて、繰り上げで入った監督で、周りも不安だった。
彼が凄かったのは、自分がわからないところをさらけだして、一緒に作っていった。
それはリーダーとして、足りないところを補って、チームも、普段以上の仕事していて、
尊敬しているし、自分もそうなりたいと思った。
堤:エドキャトマルは尊敬していますが、一番大好きだったのは、ビルコーンという一番最初のカーズや、
その前だったら、バグズライフ、自分はカラースクリプトの仕事をしていたのですが、
外からその仕事をみていて、そんな風に描けるといいなと、
パステルで絵を書いていて、光を描くのが本当に上手い人だった。
Q:キャラクターはなぜ動物になったのか?なぜブタとキツネ?
堤:おじいさんの絵は、ダムキーパーになるまでの失敗作の一つ、
動物になった理由は、僕らが描くので共通したのは、
キャラクタの内面を深くついて、暗い気持ち、あんまりハッピーな話しではない、
動物にすれば、皆がみてくれるのではないかと思った。
人間だったら、ついてこれないかとおもった。
キツネとブタは、ちゃんと考えずに、決めた感じがする。
ロ:一番最初に動物にトライしてみよう、動物にしたらどうなるかな?
ブタが最終的にあったのは、汚い仕事や、人がいやがる仕事をしている
報われないヒーローなので、ブタになったけど、
あまりちゃんと考えずに、ブタとキツネで試していたのが、いつのまにか定着した。
Q:どのようにカラースクリプトを学ばれたのか?マンガでは?
堤:結局は、シネマトグラフィー、実写をどうお話しを誇張していくのか?というのが一番。
アニメーションみたいに一枚絵をかいていくわけではなく、
それを勉強するためには、映画のシネマトグラフィーを勉強しました。
絵をかくのはもちろん、絵だけでは勉強できない。
マンガだけじゃなく、ものごと、音楽を作る時に
オーケストラでも歌でも、やっぱり初めがあって、盛り上がりがあって、終わりがあって、
全体像をみて、初めて全てがきます。
カラースクリプトは物を伝える時に、脚本だけでも同じ考え方で、
ほんとにカラースクリプト的にアプローチをやる方が、すべての初めから終わりまでの
全体をちゃんと観ながら作業できるというのは価値がある。
遠回りに思えるけれど、完成したものは、必ず一枚一枚、全体をちゃんとみながら
作業できるので。
Q:辛い時にはどう乗り越えた?
ロ:まず一つは「なぜ」が明確になっているかどうか?明確になっていないと心が折れる。
何がうまくいかなかったら、止まってしまう。
ピクサーで働くことが一番大事だったら、働けなくなったら、困ってしまう。
「なぜ」なのかにこだわっていれば。いつも考えている。
自分だけじゃできないことを常にうけとめていて、
それでも大丈夫だよ!とサポートしてくれる人が居ることが大事。
トンコハウスのファミリーがいて、自分たちの家族がいて、
すべてがサポートファミリーで、子供の顔を観ているだけで「なぜ」を思い出す。
そういうところに頼っている。
周りにたよって、すがってもいいんじゃないかと。
堤:僕は、なんでなのかな?というところは考えますね。
本当に、今の制作も大変なので、どうやっても無理な状況がずっと続いているところで、
なんとかしているので、なんで始めたのか?なんでこの仕事をやっているのかを考えると、
そういうこれ以上進めないというところでも力が沸いてくるんじゃないかと。
目先の結果をみていると、結果を求めるのは大変なのだが、
結果に振り回されてはいけない。
試合に勝ちにいかなければいけない。単に楽しむのではいけない。
試合にまけでも学びがある。勝ちを放棄してはいけないが、負けても勝ちがある。
そう考えると、野球でもアニメーションでも前に進める。
Q:なぜトンコハウスという名前に?
ロ:意味の無い言葉を作って、それを覚えてもらおうと、
なんらかの意味を混めて、
トンコは、ブタとキツネのことで、トンコそのものは意味が無く、
誰も使っていないので、
エリックコーが優秀で、韓国語で、トンゴと言うと、尻の穴という意味で、
すごいエリックで考え直して欲しいと言われ、時既に遅しでしたが、
ダーティーな言葉でなくて、子供が使う言葉で、韓国人にトンコハウスと言うと笑われます。
堤:二人でいろんな名前を出し合って、決めました。ハウスにはこだわりました。
スタジオとか、エンターテイメントはしっくりこなくて、
アーティストがきて、ここで成長するような「家」にしたかった。
最初からこだわっていました。